出雲御師の歴史【平安末期~鎌倉】

出雲御師の起源

出雲御師誕生の起源は、はっきりとされていませんが、およそ平安時代末期から鎌倉時代の頃。この時代、皇室をはじめ公家・武家が祈祷を依頼する社寺仏閣を指定したことに由来します。

平安末期~鎌倉時代 

鎌倉時代の歴史書『吾妻鑑』によると、平安末期の頃、源 頼朝は以仁王の綸旨を奉じて武装蜂起し、のちに「源平合戦」と呼ばれる治承・寿永の乱に際して、出雲氏の一族である中原資忠(なかはら すけただ)の祈祷を依頼する。平家討伐後、鎌倉幕府を開幕し、その時に行われた功労者褒賞の中で、出雲大社の祈祷が大いに功績があったことを認め、「関東祈祷師」の称号を授与。続く文治5年、奥州藤原氏の征伐の際にも「(出雲)大社の本殿において、丹念な祈祷をせよ」と、神馬一疋を寄進して祈祷を依頼しました。

 出雲御師は、吾妻鑑でも語られているように平安末期には存在していたことになります。おそらく、それ以前も何かしらの形で存在していたと思われますが、いずれも推測に過ぎない話です。

鎌倉時代

 1190年(建久元年)頼朝が権大納言兼右近衛大将に任じられ、公卿に列し荘園領主の家政機関たる政所開設の権を得たことで、いわば統治機構としての合法性を帯びるようになり、1192年には征夷大将軍の宣下がなされ、鎌倉幕府を開幕しました。これを機に公家からは「関東」と呼ばれ、武家一般からは鎌倉殿と仰がれて、武家政権を確固たるものにさせました。

 出雲大社は、初期の頃から鎌倉方に与していたため厚遇されていました。しかし、それでも雲太と呼ばれるほどの高層建築の御本殿の遷宮には、常に頭を悩ませていました。日本最大の建築規模なため安定して人材・資材の確保するのは、今も昔も同じ変わらず困難なことです。

 盤石に思えた鎌倉幕府も有力な武家たちの政権争いで、内輪揉めが絶えない状態でした。新時代の荒々しい雰囲気の中で頼朝が急死。嫡子・頼家が後継者となりますが、まだ若年であることを不安視した幕府内の有力者たちが、頼家に代わって、裁判と政務を執行する合議制を築きました。その後、すぐに頼家は病気になり引退。弟・実朝が三代目になるものの暗殺されてしまい、頼朝の系譜は断然してしまった。そんな中、後鳥羽上皇による承久の乱が起こる。事態を鎮静させ、苦肉の策として摂家将軍を擁立するも、実権は執権・北条氏の時代へとなります。

 出雲でも、承久の乱以後に実権が将軍から執権へと移行する様に不安が走り、御師たちを京や関東につながる街道に派遣します。しかし、ほどなくして制定された「御成敗式目」の第一条「可修理神社専祭祀事」をみて、ひと先ず胸をなでおろしました。

御成敗式目の第一条「神社を修理して祭りを大切にすること」

神は敬うことによって霊験があらたかになる。神社を修理してお祭りを盛んにすることは、とても大切なことである。そうすることによって人々が幸せになるからである。また、供物は絶やさず、昔からの祭りや慣習をおろそかにしてはならない。関東御分国にある国衙領(こくがりょう)や荘園の地頭と神主は、このことをよく理解しなければならない。神社を修理する際に領地を持つ神社は小さな修理は自分たちで行い、手に負えない大きなものは幕府に報告をすること。内容を調べた上で良い方法をとる。

御成敗式目の第一条に出雲大社や出雲御師がどれほど影響を与えたかは定かではありませんが、出雲大社にとっては安心の内容となります。なんていっても「神社を修理する際に領地を持つ神社は小さな修理は自分たちで行い、手に負えない大きなものは幕府に報告をすること。

出雲大社の遷宮の規模は、大社とはいえ一社では持て余す巨大事業です。ここでの御師の詳細な活動記録がないことが悔やまれます。

コメント

Copied title and URL