出雲大社

出雲の国は、神の国、神話の国として知られています。その“出雲の国”には、今もなおいにしえの神社がいたるところに あります。そして、その中心が「大国主大神おおくにぬしのおおかみ」をおまつりする出雲大社いづもおおやしろです。

大国主大神は、「だいこくさま」と申して慕われている神さまです。だいこくさまは、「天下あめのしたつくらしし大神」と も申しますように、私達の遠い遠い親達と喜びも悲しみも共にせられて、国土を開拓され、国づくり、村づくりに御苦 心になり、農耕・漁業をすすめ、殖産の法をお教えになり、人々の生活の基礎を固めて下さいました。また、医薬の 道をお始めになって、今もなお人々の病苦をお救いになる等、慈愛ある御心を寄せて下さったのです。

だいこくさま は、救いの親神さまであると共に、すべてのものが「おのずから」の姿にあるように護って下さる親神です。

「出雲大社」と一口に言っても、御祭神・御本殿・伝統・文化・芸術など幅広い分野にまたがる。

しかも、神話の時代から今日まで続く歴史があって、大学などの各機関が研究すればするほど歴史的な発見があって終わりがみえない。

そこで、きゅっとまとめて紹介。

御祭神 大国主大神

出雲大社の御祭神は「大国主大神おおくにぬしのおおかみ」です。

大国主大神は「大国=だいこく」とも読めることから「だいこくさま」とも慕われています。ちょっと注意が必要ですが、七福神などのだいこくさまは、大きいに黒で「大黒=だいこく」ですので、出雲の大国主大神ではありません。

大国主大神は、今では「縁むすびの神」として崇敬され、全国から多くの人々がご縁を求めて参詣されています。「縁」という人知では計り知れない御神徳を有されているのには理由があります。

古事記・日本書紀では、はじめから「大国主大神」というご立派な御神名ではありません。神話にはじめて登場する「因幡の白兎」の場面では「オオナムチ神」という御神名で現れます。

登場した当初は、八十神(たくさんの神様という意味)たちの従者として、袋を背負い徒歩で従っていました。その後、根の国へ赴きスサノヲ命の許で著しく成長いたしました。

そんなある日のこと、素戔嗚尊に頼まれて髪を梳いていました。頼まれたとおり梳いていると気持ち良さそうにうたた寝をはじめます。

これを好機とみただいこくさまは、素戔嗚尊の娘・スセリヒメの手を取り、御殿にあるスサノヲ命の太刀・弓矢・琴を持って一目散に逃げました。

その時、急ぐがあまりに琴が樹に触れて大きな音がなり、その音でハッとスサノヲ命は目を覚ましました。急いで外を見てみると二人は遠くまで逃げていましたが、スサノヲ命は黄泉平坂(根の国と現世の境)まで追いかけていきました。

追いつくことができなかったスサノヲ命は、黄泉平坂から遥々と遠いだいこくさまと娘・スセリヒメを見ながら「今お前が持っている私の生大刀(いくたち)生弓矢(いくゆみや)を以て兄神達を追い伏せなさい。また大国主神・宇都志國玉神(うつしくにたまのかみ)となり、我が娘スセリヒメを妻として迎えて、宇迦山の麓に立派な宮殿を造って国を治めなさい。コイツめ!」と激励を送りました。

ここで初めて「大国主大神」という名が出てきます。つまり、「大国主大神」という御神名はスサノヲ命が名づけたのです。

出雲大社の創建

「天下無双の大廈たいか」と称えられている出雲大社・御本殿の創建は、日本神話の中で語られています。

神話を紐解いてみると、大国主大神が高天原に国譲りの国土奉還こくどほうかんされる時、いろいろな約束事が決められました。

その中の一つに、大国主大神が住むべき所として、天日隅宮あめのひすみのみやを建立することを高皇産霊たかむすび大神が約束されました。

この天日隅宮が、いまの出雲大社の原初になります。

天日隅宮(出雲大社)の建て方は、「柱は則ち高く太く、板は則ち広く厚く」するとされています。

その他にも田畑を造り、海に出て遊ぶために「高橋浮橋」と「天鳥船」が備えられた。

そして、高天原にある天安河への「打橋」も架けられた。

建築の詳細な様子は記載されていないが、こんなに丁寧なもてなしを受けている神は、分厚い日本神話の中でも大国主大神がだけであり、破格な“特別待遇”である。

もともと「国造り」という国土開発の大事業は、はじめ高天原の主動で行われた。高天原から伊邪那岐・伊邪那美が派遣され、国生み・神生みがなされ、二神の子孫であるスサノヲ命が治安秩序を安定させた。

そして、スサノヲ命の子孫である大国主大神が身分序列・役割分担・田畑の改良。そして医薬を開発して人も動物も安心して暮らせる豊かな国を造り、まつりごとを経営していた。その国土を高天原に返還するのにあたり、これまでの功労を称賛して、高皇産霊大神(国土開発実行委員長みたいな神様)が立派な神殿を建てたと想像できる。

出雲大社の御造営・御修造

御造営=建て直し(全部壊して、新しい社殿を建てること)

御修造=修繕(傷んだ部分だけを修理すること)

御遷宮=御神体の神幸(工事中、仮殿に渡御。工事終了後、御本殿へ渡御)

平成25年の出雲大社御遷宮は、御修造遷宮になります。

出雲大社が行う御遷宮は、約60年サイクル。

ここまでは御承知の方も多いでしょう。

ここからは、あまり知られていない歴史をご紹介

垂仁天皇の御修造

大国主大神は、垂仁天皇に「吾が宮を天皇が住む皇宮の如く造り修めよ」というメッセージを、天皇の御子の口をふさぐという強烈なかたちで送る。

~ 本牟智和気(ほむちわけ)緘黙(かんもく) ~

 本牟智和気は髭が胸まで伸びる年齢になっても、まったく言葉を発せず、話すことがありませんでした。ある日、尾張の相津にある二股杉で作った二股の小舟で、倭の市師いちし池またかる池で遊んでいる時、白鳥の鳴く声を聞いて、初めて言葉を口にしました。

 そこで、垂仁天皇は山邊之(やまべの)大鷹(おおたか)(人名)に問題の白鳥を捕まえるよう派遣しました。山邊之(やまべの)大鷹(おおたか)は、その白鳥を追い求めて、紀伊から播磨へ渡り、因幡を越えて丹波へ、さらに但馬から東へ追って近江に入り、美濃から尾張を経由して信濃へ、さらに追って越国の和那美の水門で網を張って、ようやく白鳥を捕まえ、無事に復命する事が出来ました。

 垂仁天皇は喜びまして、これで御子と話すことができると思われましたが、この鳥を目の前にしても本牟智和気は、一言も物を言いませんでした。散々に苦労して捕まえた白鳥でしたが、それは周囲の者の思い違いだったのです。

~ 出雲大神の大宮の御造営 ~

垂仁天皇は、ひどく落胆なされ、憂いを残されて御床に就きました。その晩「我が宮を天皇の皇宮の如く造れば、必ず御子は言葉を発するだろう。」という、夢を見ました。はっと目を覚ますと、すぐさま占いをして、いずれの神の心か求めますと、なんと“出雲大神”でした。さらに、誰をお供にして出雲の大宮を参拝するべきか、曙立王(あけたつのみこ)が占う事となりました。

垂仁天皇の命により、曙立王(あけたつのみこ)が「出雲の大神を拝する事により、誠に霊験があるのならば、この鷺巣の池の樹に住む鷺よ、宇気比(うけひ)落ちよ。」と言いうと、鷺が地面に落ちて、横死しました。続けて「宇気比(うけひ)生きろ。」と言うと、生き返りました。今度は、甘樫の丘の葉の広い樫の樹を、宇気比の力で枯らし、再び生き返らせました。曙立王は、この能力により“(やまと)老師木登美豊(おゆしきとよとみ)朝倉(あさくら)曙立王(あけたつのみこ)”という名を授かりました。

さっそく出立の準備が進められ、どの道の口が吉いのか占いました。「奈良の道には足の悪い人や目の見えない人と出会うだろうから不吉だ。また、大坂の道にも足の悪い人や目の見えない人が居て不吉だ。 紀伊の道なら、縁起がいい」 と占い調べました。こうして、曙立王と菟上王(うなかみのみこ)が従者として出雲へ出発し、行く先々で品遲部を定めました。

一行が出雲に着き、出雲大神に参拝して都へ帰る途中、肥河に黒木の巣橋を作り、本牟智和気がお休みになられる為の仮宮を造りました。するとそこへ出雲国造・岐比佐都美(きいさつみ)(第14代出雲国造・来日田維穂(きいたいほ)命)が参りました。儀礼として、御子がお休みなられる仮宮の河下に青葉の木々を山のように飾り立て、出雲国造が御子へ饗宴の用意をしている時、突如として本牟智和気が「あの河下に見える青葉の山は、山と見えるが山ではない。もしや、出雲之石砢之曽宮(いわくまのそみや)に鎮まり給える葦原色許男(あしはらのしこお)大神を祀る祭場ではなかろうか。」と問われました。

これを聞いたお供達は悦び、本牟智和気をアジマサの長穂宮にお移りいただき、都へ早馬を出して、垂仁天皇へ御子が言葉を発せるようになった事を知らせました。

その晩、本牟智和気は肥長(ひなが)比売(ひめ)と一夜を過ごしました。ふと肥長比売を見ると、隣にいたのは美しき乙女ではなく、蛇だったのです。本牟智和気は驚き、恐怖のあまり船に乗って逃げ出しました。肥長比売もすぐに船に乗り、本牟智和気を慕って海を照らして追いかけましたが、その様が一層怖くなり、山を越えて逃げるようにして大和へ帰り着きました。

一方では、垂仁天皇は御子が話せる事を知って大変に悦び、すぐさま菟上王(うなかみのみこ)を責任者として、出雲の大宮を御造営させました。

~ まとめ ~

「天皇の皇宮の如く」というのはどのような意味を持っているのか。

皇居と同一の規模・形式という意味であれば、創建以来の出雲大社の建築様式が変更されてしまう。そうではなく、皇居のような荘厳さを要求している。

垂仁朝の時代では日本最大規模の建築といえば、皇居と出雲大社だけということを示ししている。

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