出雲御師とは

出雲の御師とは「祈祷師」のこと

 出雲御師(いづもおし)とは、出雲大社から認可され、全国に出雲信仰を広める活動をする神職たちを総称する古い呼び方です。そもそも御師とは、祈祷師のこと意味して「オイノリシ」が略されて、ただ「御師」と呼ばれるようになりました。

 鎌倉時代の歴史書『吾妻鑑』には、出雲氏の一族の中原資忠(なかはら すけただ)が源 頼朝からの依頼で平家打倒の立願を祈祷をしました。その後、治承・寿永の乱において源氏一門が平家一門を討伐し、平家政権を滅亡させ、鎌倉に幕府を開きます。その際の功労者褒賞で、中原資忠に祈祷の功に賞賛し「関東祈祷師」の称号を授与。    続く文治5年、奥州藤原氏の征伐の際に「大社の本殿において、丹念な祈祷をせよ」と、神馬一疋を寄進して、さらに祈祷をするように申し出たことが記録されています。

 すでに鎌倉時代には「祈祷師」というのが確立されていました。この頃になると祈祷は公家・武家から一般の村落にも普及していて、平和な村々においても「五穀豊穣」「四海平穏」などの祈祷を行っていた記録があります。

出雲大社の危機

平安~戦国時代の間は、依頼があってから祈祷するという「受け」の姿勢であったが、豊臣政権下になると積極的に御師を全国に派遣させて御神徳を説かせ、出雲参りを奨励し、御師に案内を務めさせる「日本勧化」を実行。その背景には、豊臣秀吉の政策による経済的危機があり、これを契機に出雲大社と御師が大きくモデルチェンジする。

時代は、豊臣秀吉が関白になったにより戦国の世も終息したかのように見えた頃。秀吉は織田信長の支那征服構想を引き継ぎ、中国大陸の制覇に乗り出す。そして、その足掛かりとして朝鮮出兵をする。秀吉が「唐入り」と称して起こした遠征は、16世紀最大の世界戦争だった。

15万~20万といういわれる大規模な軍勢を渡航させるには莫大な費用かかる。その費用を賄う一環として「社寺領削減」の政策がとられ、当然のように出雲大社にも適用された。その後も毛利家からの軍役を要求されたが、時の宮司がこれを拒否。その代償として社領が没収される事態となった。

出雲大社の年間祭祀を賄うことが困難なほど領地が収公されてしまい、従来どおりでは困窮必死の状況。加えて宮司は勿論のこと上官神職も出雲国から出張することができない制約があった。ここで御師となるのが中官神職。川を渡り山を越えて日本全国津々浦々へと派遣された。

江戸時代は旅行業がメイン

江戸時代には、御師たちの活躍もあって出雲大社の知名度を全国区になった。御師が布教するときに使った「えんむすび」という言葉が強力なパンチラインとなり、出雲信仰を奉じる人々が日増しに増加した。御師は、一定数の出雲信奉者が集まると「講」というグループを組織し、御札や祈祷の取次ぎが円滑に行うようになった。この「出雲講」は、江戸時代には全国にかなりの数が成立する。

出雲講を組織したことにより、御師は出雲講の人々を連れて出雲大社へ参拝するようになる。道中の道案内は勿論のこと、関所や役所への書類の提出・宿泊の手配・傷病人が出た時の対処など、現在の旅行代理店兼添乗員のような役割を果たした。

江戸時代、御師が先導した有名な神社参拝といえば「おかげ参り」でおなじみの伊勢の神宮。盛り上がりすぎて「ええじゃないか」の大合唱。

今の出雲御師

 現在では、出雲御師という制度ありません。出雲大社も時代と共に運営体系を変化させて、神職と出雲御師を二分しています。今日では、出雲大社には神職しかいません。一方で、出雲御師は「出雲大社教」という教団に所属し、名称も御師から「布教師」と改められました。なので正式には「出雲大社教の布教師」ということになります。

 こんなことは一般的な知識ではないので、「何それ、よく分かんない。つまり、出雲大社とは関係あるの?ないの??」と、よく質問されます。答えは、ズバリ「関係あります!」。出雲大社との関係は深いのですが、宗教法人法の関係で出雲大社と出雲大社教とは、別々の法人格をもっています。それが、すっきりしない原因の一つじゃないかと思います。

各神社の御師

 御師の存在は出雲大社に限らず、それぞれの神社にもいます。その御師たちが所属する神社の信仰を全国に広めていました。特に有名なのが、和歌山県の熊野三山の御師、伊勢の神宮、伏見稲荷大社、石清水八幡宮の御師などが有名です。

 そうした御師たちも出雲御師のように日本全国を行脚していました。その結果として皆さんの地元に〇〇八幡神社・〇〇稲荷神社とかが建立されました。しかし、それは 御師たちが当時の村や町の人々と一緒になって地域の発展に尽くした証でもあります。

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