出雲大社教では、大国主大神がお鎮まりになる出雲大社・御本殿のことを、根源となる御社として特別に「宗祠」と申し上げて仰いでいます。
宗祠・出雲大社のことをお話しする前に、「出雲大社とは」という前提を以下の4点にまとめてみた。
1、御祭神は大国主大神であること。
2、鎮座地は、「杵築」の地であること。
3、祭主(宮司)は天穂日命であること。(天穂日命の魂を火継ぎした出雲国造のこと)
4、御社殿が高層であること。
国津神の代表神・大国主大神 国土を高天原に奉還する
出雲大社そして御祭神が大国主大神である理由は、日本書紀のいわゆる国譲り・国土奉還のところにあります。
高天原から派遣されたフツヌシ神・タケミカヅチ神が「出雲の五十田狭の小汀に降到りて、大己貴神(大国主大神の別名)に問いて曰く」と、大国主大神に言いました。
「汝、将に此の国を以て、天神に奉らんや不や」
フツヌシ神・タケミカヅチ神の二神は、高天原の使者であり、天津神の代理として「国を高天原に謙譲しなさい」という要求を迫ると、大国主大神は何と返答したか。
「疑わし、汝二神は是れ吾が所に来ませるに非ざるか。故れ許すべからざる。」
訳「疑わしいな。あなた達二神は、高天原から私のところへ来て、本当に国を譲れと言うのですか。とてもじゃないが、あなた達の話を聞くことはできません。」
重要な案件にもかかわらずフツヌシ神・タケミカヅチ命の交渉の仕方が、あまりにも雑というか大雑把で、詳細な点が不明瞭だったのでしょう。さすがのだいこくさまも、イラっとした感が否めない返事を返しました。
この返事にびっくりした二神は、急いで高天原に戻りまして報告しました。高皇産霊大神は、この報告を聞いて考え直し、再び二神を派遣して丁寧な内容を伝えました。
「今汝が申すこと聞くに、深く其の理有り。故れ更に條條にして勅したまう。」
「あなたが申したこと確かにもっともなことだ。ただ単に国を譲りをしてほしいということではなく、これから一つひとつ具体的に説明しますので、お聞きください。」
ここから国譲りの条件が詳しく述べられていきます。
高天原側が提示した国譲りの条件
オオクニヌシの「国譲り」と言うと「高天原が吸収合併」した、あるいは「高天原vs出雲」の戦争みたいに思われがちですが、神話をよーく読んでいくとそんな単純なことではないことが分かります。
あとで詳しく解説しますが、国譲りとは政治形態が転換する一大転機の場面を描いています。
それでは、どのような条件が高天原から提示されたのかを箇条書きにしましたので見てみましょう。
1、「夫れ汝が治す顕露事は、宜しく是れ吾孫治すべし。汝は即ち神事を治すべし。」
2、「汝が住むべき天日隅宮は、今まさに供造りまつらん。」
3、「千尋の栲縄以て結いて百八十紐にせむ。其の宮を造る制は、柱は則ち高く太く、板は則ち広く厚くせむ。」
4、「田供佃らん。」
5、「汝が往来いて海に遊ぶ具の為に、高橋浮橋およびの天鳥船も供造らん。」
6、「天安河にも打橋造らん。」
7、「百八十縫の白盾供造らん。」
8、「汝が祭祀を主らん者は天穂日命是なり」
以上の8つの条件をグッとまとめると「顕露事(顕世)と神事(幽世)の統治権を交換し、そのために必要な施設や人事を行います。」ということになります。
次に解説をしていきます。
条件1 「汝が治す顕露事」とは
顕露事とは、目に見えて耳に聞こえる現実世界のこと。神道では「顕世」といい、人や動植物が生きる世界のことを意味しています。
国譲り以前までは、大国主大神が顕露事を治めていたということになります。
では、反対の世界である目に見えない耳に聞こえない神事の世界は誰が治めていたのか。それは、高天原を統治する「天照大御神」です。
整理すると、顕世=大国主大神・神事=天照大御神という統治権限が入れ替わることになります。
そして、入れ替わった後、現世は天照大御神の系譜をひく天孫が治めることが明記されています。
国譲りは、国土を奉還することばかり強調されていますが、その反対側には神々の統治する権限を大国主大神に渡すという権限交換が第一条件になっているのです。
条件2・3 大国主大神が住む建物を造る
条件2・3で国譲りの際に高天原側が出雲大社を建造することが、はっきりと明記されています。
建築に用いる建材は「柱は高く太く、板は広く厚く」と特別なものを使用することが約束されていて、出雲大社限定の破格な条件です。
この「柱は高く太く、板は広く厚く」という表現をもって高層性を示しているとも言われています。『古代の出雲辞典』にも「太い柱を立て、千木(屋根の上にのっているバッテンに組まれているもの)を空高く上げた壮大な宮」を造るとなっています。しかし、この表現は祝詞の中でもよく使われる常套句なのです。例として、延喜式に記載されている祝詞を見てみると、
春日祭祝詞 「…大神等の乞はしたまいしまにまに、春日の三笠の山の下津岩根に宮柱広知り立て、高天原に千木高知りて…」
平野祭祝詞 「…皇大御神の乞はしたまいしまにまに、此の所の底津岩根に宮柱広敷き立て、高天原に千木高知りて…」
上記の二例は延喜式祝詞からの引用ですが、いまでも多くの神社でも使われている表現です。
この話をすると「エッ!それじゃ神社って全部が高層神殿だったの?」とよく聞かれますが、そうではないです。平野神社も春日大社も立派な御社殿ですが、出雲大社ほどの高層性はありません。
なので、条件3の中で「柱は高く太く、板は広く厚く」と、言われているから高層神殿であったとはいえません。
そして、例に出した祝詞の中では、「大神等の乞う…」ということで、神様からの要請で御社殿を建てたことを示しています。これは規模を示唆しているのではなく、「神様がお住まいになられる立派なものを造りました。」と解釈することができます。
それでは、なぜ高層神殿でなければならない必要があったのか。
条件4・5 主な住環境
4から7の条件は、出雲大社の規模というべき、大国主大神の生活環境を整えることも提案されています。
条件4は、御田を造ることが記されています。御田は食事に関係しますが、それだけではありません。御田には領地の広さや豊かさも同時に意味する表現なので、立派な建物と広大で豊潤な土地を約束する条件となります。
次の条件5は、「汝が往来いて海に遊ぶ具の為に、高橋浮橋およびの天鳥船も供造らん。」と、されています。
これは、自由に海に出ることが当然のこととされた条件です。
よく聞く話に「オオクニヌシが出雲大社に隠れたということは、高天原との戦いに敗れたオオクニヌシは出雲大社という巨大な牢に閉じ込められた。高天原は、それを国津神たち見せつけて恭順を示すように圧力をかけた」みたいな論説をこれ見よがしにされている方がいらっしゃいますが、これを機に学んで頂けたら幸いです。
出雲大社に隠れたという表現は、出ることを前提にした意味です。当然のことですが、いつでも出せるから「隠す」というわけで、二度と出せないなら「失くす」って言いますよね。
高橋とは、高い神殿から出るときに必要な「はしご」あるいは「階段」のような機能が備わっている橋のこと。
浮橋とは、船を着けるのに必要な橋。桟橋のように陸と海とを渡る機能が備わっている橋のこと。
天鳥船とは、船であり御神輿のこと。現在でも御神輿の上には鳳凰などの鳥が備えられている。
大国主大神が出雲大社から出かける逸話が『出雲国風土記』の中にも見られるので、ちょっとご紹介。
『出雲国風土記』仁多郡
「三澤の郷、郡家の西南のかた25里なり。大神大穴持命の御子、アヂシキタカヒコネ命、御髭八握に生うるまで昼夜哭きまして、命通わざりき。その時、御祖命、御子を船に乗せて八十島を率いて巡りてうらがし給えども、なお哭き止みまさざりき。」
訳「三澤の郷、郡家(役所みたいな所)から南西に25里のところ。大穴持命(大国主大神の別名)の御子、アヂシキタカヒコネ命がいらっしゃいました。髭がとても長くなるまでに成長されたのですが、夜も昼も哭いてばかりいます。父である大穴持命は不憫に思い、御子の許へ行き、船に乗せて島々を巡って慰めましたが、それでもなお哭き止みませんでした。」
親の苦労って、今も昔も変わらないですねぇ~
条件6 神事を統治する環境
条件6の「天安河にも打橋造らん。」
この条件が、出雲大社が高層でないとならない理由とされているポイントにもなります。このポイントについて、わかりやすく解説していきたいと思います。
高天原には「天安河」という川があり、とても重要な川です。かの有名な「天の岩戸」神話のところでは、天津神たちが天安河に集まって会議しました。
島根県古代文化センターの関 和彦氏の説によれば、この天安河は高天原の中央に流れているのではなく、高天原の境界に流れているとされています。
何故、川が境になっているのか。古事記によると「天安河の水を塞き上げて道を塞いでいう故に、他の神は行くことができない」となっているため、この川が境界であることがわかります。そのため、天の岩戸の前段では、国にいたスサノヲ命は高天原にいる姉の天照大御神に最後のあいさつに赴いた時、この二神は天安河で対峙します。
高天原の天津神は、不自由なく昇ったり降ったりすることができますが、大国主大神は国津神です。この川を渡って高天原に入ることができません。これでは高天原で神事の世界を治めることができませんので、何が必要かといえば、高天原まで届く高い社殿と橋が必要となります。
通常の高層建築では、1階から最上階までの全部が建物としての機能がありますが、出雲大社をよくご覧になって頂くとわかりますが、ものすごい高床の平屋です。ですので、地面と社殿の間には柱と階段しかありません。ここも出雲大社の特徴の一つです。
現在の出雲大社の高さは約24mで、日本一の高層神殿ですが、古事記・日本書紀が編纂された8世紀では、高さ約48mありました。(平成12年の境内発掘調査では、鎌倉時代と推定される古代神殿の柱の根本部分が発見されました)さらに古くは96mあったとされていますが、まだ学問的には疑問符が付けられています。
96mはいったん置いといて、仮に48mもの高層建築を古代の人が見れば、十分に空まで届いているように思えたでしょう。寂連法師が1190年に参拝された折に「…この世の事ともおぼえざりける やはらぐる 光や空に満ちぬらん 雲に分け入る 千木の片そぎ」と初めて出雲大社に詣でた心の内を詠まれました。
大国主大神が高天原で神事を統治するために、出雲大社は高層神殿になった。そして、天安河を渡るために「打橋」をも造ると高天原側が約束したのです。
「天津神 対 国津神」みたいな趣旨を述べている方からは、「あの神主、何もわかってねーな」って、鼻で笑われることもありますが、神話の時代って超古代史なので、史学・考古学・建築学的にも解明できない部分は多くあり、逆にはっきりと「こうだ!」って、言い切っている方をみると危ないなぁって感じます。
まー。パフォーマンスの一つとして、見ている分にはおもしろいですけどね。
条件7 万全の警備体制
条件7の「百八十縫の白盾供造らん。」は、大国主大神また出雲大社が無事であることを保証するため、その中を警備することが決められています。
『万葉集』から聖武天皇が遷都した時、大伴家持の「天平13年三香の原の新都を讃える歌」をみると、古代から遷宮・遷都の際には盾を並べる警備の祭礼があったことがわかります。以下引用
「山背の久邇の都は 春されば 花咲きををり 秋されば黄葉にほひ 帯ばせる泉の川の上つ瀬に 打橋渡し淀瀬には浮橋渡し あり通ひ仕へまつらむ 万代までに」 大伴家持
反歌「盾並めて 泉の川の水脈絶えず 仕へ奉らん 大宮所」 境部宿祢老麻呂
「百八十縫の白盾供造らん。」というのは、天孫・天皇と同等の祭礼を行うこと意味している約束事になります。
条件8 祭主は天穂日命
条件8の「汝が祭祀を主らん者は天穂日命是なり」
解説のほとんどが「天穂日命とは」になりますが、重要な国譲りのポイントなので解説していきたいと思います。
天穂日命は、天照大御神の第2御子神です。誕生譚は、先ほどの「天の岩戸」の前段にあります。
そもそも、なぜスサノヲ命は、姉・天照大御神に最後のあいさつに行ったのか。
スサノヲ命は、父・イザナギ神から海原を統治するよう命じられていましたが、どうしても母のいる「黄泉の国」に行きたいと懇願します。あまりにも酷いダダのこねように、ついにイザナギ神が黄泉の国に行くことを許します。黄泉の国に行ってしまえば、もう二度と帰ってくることはできません。(イザナギ神が黄泉の国と現世の境を塞いだから)
スサノヲ命は、姉の天照大御神にもう会えないこと思い、せめて最後のお別れのあいさつをしようと高天原に昇りました。しかし、海原にいるはずの弟が急に高天原に昇ってきて、その昇ってくる様子が異常に騒がしいこと。これには天照大御神も弟が攻めてきたのかと勘違いをして、高天原の境界である天安河で武装して待ち構えます。
スサノヲ命にしてみれば、お別れを言いに来ただけなのに、対岸では戦闘態勢に入っている様子にドン引きします。
しかも、いくら理由をいっても信じてもらえなく、ついには誓約をすることになりました。
天安河をはさんで誓約した時、スサノヲ命の剣を天照大御神が使って生まれたのが「宗像大社」の三女神。
・田心姫神 たごりひめのかみ
・湍津姫神 たぎつひめのかみ
・市杵島姫神 いちきしまひめのかみ
次に、天照大神の珠をスサノヲ命が使って生まれたのが五男神。
1、天之忍穂耳命(この神の御子が天孫として高千穂に降臨します)
2、天穂日命(出雲大社の祭主)
3、天津日子根命
4、活津日子根命
5、熊野久須毘命
誓約した後に、天照大御神が審判を下します。
「五柱の男子は、私の物実により生まれたのだから、自ずから私の御子である。三柱の女子は、あなたの物実から生まれたのだから、自ずからあなたの御子なり。」
ちょっと混乱してきますが整理すると、だれが生み出したのかのではなく、どちらの物から生まれたのかが重要だということ。
スサノヲ命の剣から生まれた三女神は、スサノオ命の御子。
天照大御神の珠から生まれた五男神は、天照大御神の御子。
天穂日命は、天照大御神の第二の御子神となります。
この天穂日命は、とても優れてた神であると評判でした。なので、国譲りという大事業に際して大国主大神との交渉を誰が務めるべきか、高皇産霊大神が高天原の神々に聞くと、皆そろって「天穂日命が適任でしょう。高天原の“神傑”なので、きっと上手く話をまとめるに違いない。」と、太鼓判を押されるほどでした。
しかし、3年経っても国譲りの条件がまとまらず難交渉しました。そんな時にフツヌシ神・タケミカヅチ命がなかば強引にやってきたので、大国主大神は「疑わしい」という返事をしたのです。結果的には高皇産霊大神・天照大御神との直接的な交渉の許、国譲りが決まりました。
天穂日命は、長期間にわたって大国主大神との話し合いをし、よく理解をしていたことから、大国主大神の信任も厚かったのでしょう。大国主大神の祭主として、そのまま出雲に残りることが条件の一つになったわけです。
これは神話の世界だけの話ではなく、現在にまでつながっています。今日でも出雲大社の宮司は、天穂日命の子孫であり、天穂日命の神魂を継いだものが務めなければならいとされ、今は第八十四代出雲国造・宮司 千家 尊祐様がお仕えしています。換言すれば、天穂日命は体は違えども生きとおしているのです。
まとめ
出雲大社が高層神殿になったのか。それは、高天原で神事(幽世)を政治を統治しなければならないから。
そのためには、天まで届くほどの神殿と天安河を渡る橋が必要だったから。
古代の神々が築いた神殿と領地なので、その土地はいまでも「杵築」と呼ばれています。
伊勢の神宮でも、遷宮に関する祭祀にも「杵築祭」というのを行います。これは、柱を立てるために地面を杵でつき固めるという儀式です。
以上が、「出雲大社はなぜ高層神殿でなければいけなかったのか」の理由を解説になります。詳細な説明は省きましたが、ご覧になった方に少しでもお役に立てたら光栄です。
もう少し詳しく勉強したいかには出雲大社御遷宮奉賛会も編した『出雲大社の造営遷宮と地域社会(上)』がオススメ本です。
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