神武東征のはじまり
イワレビコ命(神倭伊波礼毘古命=神武天皇)は、兄のイツセ命(五瀬命)と高千穂宮におりました。
ある日のこと「どこの国ならば、平安に天下を統治できるだろうか?もっと東に行ったほうが良いだろう」と、神武天皇とイツセ命は日向から出発して筑紫に行きました。
筑紫の豊国の宇沙に着いたとき、宇沙の住民であるウサツヒコ(宇沙都比古)・ウサツヒメ(宇沙都比売)が足一騰宮を建造し、大饗宴を開いてお迎えしました。
しばらくして、宇沙から移動し、筑紫の岡田宮に一年滞在しました。
その後、筑紫の岡田宮から安芸国の多祁理宮に着いて、七年滞在しました。
こんどは、安芸国を出発して、吉備国の高島宮に着いて、八年居ました。
イワレビコ命とイツセ命は、吉備国を出発して東へと向かっている途中、速吸門で亀の甲羅に乗って釣りをしているものがいました。何となく見ていると、そのものが袖を振って近づいてきました。
不思議に思い「あなたは誰ですか?」と聞くと
「わたしは国津神です」と答えました。
「あなたは、海の道を知っていますか?」と尋ねると
「よく知っています」と答えました。
「わたしたちと一緒に来ないか?」と尋ねると
「よろしい。お仕えしましょう。」と答えました。
イワレビコ命は、その神に竿を差し渡して船へと引き入れました。そして、サオネツヒコ(槁根津日子)という名前を授けました。
この神は、倭国造などの先祖です。
ナガスネヒコとの戦い
それから、さらに東へと進み、浪速の渡を通って白肩津に船を泊めました。
そのとき、登美(=地名)のナガスネヒコが軍を展開して待ち受けていて、やむなく戦闘になりました。
地勢の優位さを利用してナガスネヒコが戦いの口火を切って突撃してきました。イワレビコ命とイツセ命は、盾を取り出して船から下りて応戦する形となりました。その土地を名付けて盾津といいます。現在は日下の蓼津といいます。
イツセ命は、この戦闘中に手に矢を受けた深手を負いました。
傷を受けたとき、イツセ命は言いました。
「わたしは日の神の皇子なのに日に向かって戦ってしまった。これは良くなかった。あんな卑しい奴に痛手を負わされるとは。次は回り道をして、太陽を背にして戦おう」と誓い、南から回って血沼海に到着して、その手の血を洗いました。
血沼海から更に回って、紀伊国の男乃水門に着いて時、「卑しい奴の手傷で死ねるか!」と雄雄しく振舞いましたが、死んでしまいました。
イツセ命の墓は紀伊の国の竈山にあります。
ここまでの原文
神倭伊波礼毘古命、其の伊呂兄五瀬命と二柱、高千穂宮に坐しまして議りたまはく、何れの地に坐さばか、天下の政をば平けく聞看さむ。猶東のかたにこそ行でまさめ、とのりたまひて、即ち日向より発たして、筑紫に幸行でましき。
故れ豊国の宇沙に到りませり時に、其の土人、名は宇沙都比古・宇沙都比売の二人、足一騰宮を作りて大御饗献りき。其地より遷移らして、竺紫の岡田宮に一年坐しましき。亦其の国より上り幸でまして、阿岐国の多祁理宮に七年坐しましき。亦其の国より遷り上り幸でまして、吉備の高島宮に八年坐しましき。
故れ其の国より上り幸でます時に、亀の甲に乗りて釣為つつ、打羽擧り来る人、速吸門に遇ひき。爾れ喚びよせて、「汝は誰ぞ」と問はしければ、「僕は国神【名は宇豆毘古】」と答曰しき。又「汝は海道を知れりや」と問はしければ、「能く知れり」と答曰しき。
又「従に仕へ奉らむや」と問はしければ、「仕へ奉らむ」と答曰しき。故れ爾に槁機を指し渡して、其の御船に引き入れて、即ち、槁根津日子といふ名を賜ひき。【此は倭国造等の祖なり。】
故れ其の国より上り行でます時に、浪速之渡を経て、青雲之白肩津に泊てたまひき。此の時、登美能那賀須泥毘古、軍を興して、待ち向へて戦ひしかば、御船に入れたる楯を取りて下り立ちたまひき。故れ其地の号を楯津と謂けつるを、今に日下之蓼津となも云ふ。
是に登美毘古と戦ひたまふ時に、五瀬命、御手に登美毘古が痛矢串を負はしき。故れ爾に詔りたまはく、「吾は日神の御子にして、日に向ひて戦ふこと良はず。故れ賎奴が痛手をなも負ひつる。今よりはも、行き廻りて、日を背負ひてこそ撃ちてめ」と期りたまひて、南の方より廻り幸でます時に、血沼海に到りて、其の御手の血を洗ひたまひき。故れ血沼海とは謂ふなり。
其地より廻り幸でまして、紀国の男之水門に到りまして詔りたまはく、「賎奴が手を負ひてや死ぎなむ」と男建して崩りましぬ。故れ其の水門を男水門とぞ謂ふ。御陵は紀国の竈山にあり。
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