- 読みやすいように神様の御名はカタカナで表記します。
- 旧字体・古語は現代語になおします。
序文中編の解説
ここでは天武天皇の話が、紙面を大きく締めています。
何といっても古事記の編纂事業を発案されたのが天武天皇ですから、当然と言えば当然の結果ですが、それにしても紹介文の量が多い。そして、壬申の乱にふれられていて、近江朝と大友皇子との戦にも書かれています。
飛鳥時代は、蘇我氏が台頭してきた時代でした。蘇我氏滅亡を計画した中臣鎌足・中大兄皇子(後の天智天皇)が、蘇我入鹿を暗殺した乙巳の変を成功する。その後、大化の改新が行われ、中央集権国家の制度・「日本」という国名・「天皇」という称号などの大宝律令への布石が散見されます。
次の天武天皇の時代では、強権的だった天智天皇に対する不満に応じるかたちで壬申の乱が起こった。天武天皇の徳の高さもさることながら、こうした周囲の不満を吸い上げるかたちで一大クーデターが成功し、先代よりもソフトな運びで天皇集権がはじまった。
古事記・日本書紀などの歴史書の編纂は、こうした時代背景のもとに行われた事業だったことが窺われます。
それでは、序文中編をみてみましょう。
序文(中編) 現代文訳
飛鳥清原大宮にいらっしゃいました天武天皇の御代のこと。
天武天皇は、大海人皇子の頃より優れた徳を備えられた方で、龍が伏する如く過ごしていましたが、ついに雷鳴を轟かし目覚める時を迎えました。
それは、ある日こと。夢の中で歌を聞きました。この歌は皇位を継ぐお告げだと思われて、その夜に川で禊を行ったところ、皇位継承の使命を確信しました。
しかし、まだ皇位を継ぐ時期ではないと考え、自ら出家して南方の吉野山にいらっしゃいました。しかし、天智天皇が崩御されると蝉が脱皮するかの如く天子になられました。よく人々が集まり兵の準備が整ったので、東国(岐阜県不破郡一帯のこと)へ虎のような威を以て進軍しました。
大海人皇子(天武天皇)の御輿は、山を越え川を越え、六師団(軍団)は雷のように音を轟かせ、三軍は稲妻の如き速さで進軍しました。矛が勢いよく突き上げて威武を高らかに示し、勇猛な士は狼煙に決起し、旗を赤々と掲げ武具は輝きを放っています。大友皇子を擁立する近江軍は、あっというまに敗れ瓦解しました。しばらくすると辺りは落ち付き、戦争に使われた牛や馬に休息をとらせて、都に凱旋しました。旗を巻き、武具を納めて、舞を踊り歌を詠んで都は穏やかにくつろぎました。
歳(暦のこと)は大梁(酉年)、月は夾鍾(陰暦の二月)に大海人皇子は、浄御原宮(奈良県明日香村)で即位式を行い天武天皇となりました。その政策は非常にすぐれていて、古代中国の黄帝に勝り、徳は周の文王を越えていました。乾符(神器のこと)を受け継いで、天下を治めました。天の血統を得て、八紘の隅々まで非常によい政治が敷かれたので、陰陽の機微を捉え、五行(木火土金水)の順序を正して、秩序と平安を築きました。神を崇敬して良俗を奨励したので、この気風は自然と国中に広がりました。さらに申して、その知識は海原のように広く、古い歴史を求め、その心は鏡のように明るく澄みきっており、先人の業績を鑑みてよく学びます。
天武天皇はおっしゃられました。
「朕の聞くところによると、各々の家に伝わっている帝紀や本辞(帝の系譜・歴史・伝承・神話のこと)は、事実とは違っていたり、嘘が混じっていると聞いた。もしそうならば、今のうちのその誤りを正しておかないと、本当の内容が失われてしまう。
これら伝承は、国家建設の経緯であり、王権国家の大いなる基である。帝紀旧辞を調査して、虚偽を削除し、真実を定め、正しい歴史を編纂して後世に伝えようと思う」
その頃、稗田阿礼という28歳の舎人がいました。人となりは聡明で、一目見ただけで難読な文字を理解し、音訓を判別して意味の分かる言葉に直すことができ、一度覚えると忘れなかった。そこで天武天皇は、阿礼に帝紀旧辞や日本各地の伝承や歴史を読み習わせました。ところが、天武天皇が崩御されると、世の中が変わりまして歴史書の編纂は実行されずじまいになりました。
序文(中編) 原文
飛鳥清原大宮に、御大八洲天皇(天武天皇)の御世に曁びて、濳龍元を体し。洊雷期に応ず。夢の歌を聞きて業を纂がむことを想い、夜の水に投りて基を承けんことを知しめしぬ。然れども、天の時未だ臻らざりしかば、南山に蝉の如く蛻けたまい、人事共に洽くして、東国に虎の如く歩みたまいき。皇輿忽ち駕して、山川を凌ぎ渡り、六師雷の如く震ひ、三軍電の如く逝く。杖矛威を挙げて、猛士烟の如く起り、絳旗兵を耀かして、凶徒瓦の如く解けぬ。未だ浹辰を移さずして、氣沴自ら清まりぬ。乃ち牛を放ち馬を息えて。愷悌して華夏に帰り、旌を巻き戈を戢め、儛詠して都邑に停りたまう。
歳大梁に次り、月侠鍾に踵りて、清原の大宮にして、昇りて天位に即きたまう。道は軒后に軼ぎ、徳は周王に跨えたまう。乾符を握りて六合を摠べ、天統を得て八荒を包ね、二氣の正しきに乗じて、五行の序を齊え、神理を設ねて以て俗を奬め、英風を敷きて以て国を弘めたまう。重加、智海浩瀚として、潭く上古を探り、心鏡煒煌として、明らかに先代を観たまえり。
是に天皇詔したまわく、「朕聞く、諸家のもたる所の帝紀及び本辭は、既に正實に違い、多く虚僞を加うと、今の時に當り、その失を改めずば、未だ幾ばくの年を経ずして、其の旨滅びなんとす。斯れ乃ち邦家の經緯、王化の鴻基なり。故れ、惟れ帝紀を撰録し、旧辞を討覈して、偽りを削り、実を定め、後葉に流えんと欲す」とのたまう。時に舍人有り、姓は稗田、名は阿禮。年は是れ廿八。人と爲り聰明にして、目に度れば口に誦み、耳に拂るれば心に勒す。即ち阿禮に勅語して、帝皇の日繼及び先代の旧辞を誦み習わしめたまいぬ。然れども運移り、世異りて、未だ其の事を行わざりき。
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