『古事記』は、おもしろい!

古事記

多くの読書家の心を挫けさせてきた書物の代表格といえば『古事記』と『日本書紀』だと思います。

日本神話が満載の二冊には、誰しもが興味を持ち、挑戦したことでしょう。しかし、最後は静かに閉じて遠くをみて終わる結果を迎える。

そんな方の為に、少しでも『古事記』に興味を持っていただきたく、わかりやすく解説していきます。お役に立てたら嬉しいです。

はじめる前に

古事記

  • 天武天皇の詔によって事業開始
  • 元明天皇の御代に献じて事業終了
  • 編纂年 712年
  • 編纂者 太安万侶
  • 巻数  三巻(上・中・下)

神職になるときに必ずと言っていいほど『古事記』と『日本書紀』は、素読します。はじめは意味もわからず、ただ文字を追っていましたが、勉強していてくと徐々に面白くなり、「神様もこんな失敗するんだなぁ」って、不思議に思うだけでした。しかし、そこに歴史をてらしていくと神代から人代へと変わらない出来事に気づき、人間の真理みたいなものを神話から学ばせてもらえます。

現存する最古の書物である古事記は712年に編纂された書物です。日本書紀は720年に編纂されています。古事記と日本書紀をあわせて「記紀」って呼ぶこともあります。

どちらの書物も天武天皇の詔によって事業が開始されました。実は、古事記は日本書紀よりも後に編纂が命じられたのですが出来上がったのは日本書紀よりも早く、そして書物の巻数も日本書紀30巻に対して古事記は3巻と少ないです。

また、特徴的な前書きのような序文があります。この序文では、古事記全体を要約したもであり、かなり重要なところでもあります。

古事記は、何のために作られたか

ところで、古事記も日本書紀も同時期に編纂された歴史書です。

日本書紀は、中国の歴史書にならって日本でも本格的な歴史書を作ろうという動きの中で作られたものです。そのため、中国でも読めるものを意図して、漢文体で、時系列順に記録されています。日本書紀は、成立の翌年から宮中において読書会が行われた記録があり、中央政府の官人が勉強目的で読んでいたことがうかがえます。

一方、古事記はどうでしょうか。古事記は、日本の古語を書き記すために、崩れた漢文体を用い、国内向けの文章で書かれています。

神々の世界から各天皇の時代の出来事を描く点では、日本書紀と変わらないのですが、登場する神々や人々が個性豊かに描かれ、それぞれの物語がドラマチックに描かれています。そのため皇后の娯楽用、または皇子の教育用に作られたという見方があります。完成後に広く読まれた形跡がないのも、宮中内部の私的な文書であったからとも言われます。しかし一方で、氏族系譜に対してこだわりを見せているところから、天皇家と各氏族との関係性を明示し、天皇中心の国家体制を確立するために作られたという見方等もあります。

いずれにしても、国の正史と位置づけられる日本書紀と比較すると、古事記は成立の意図や性格など、謎に包まれた部分が多くあり、それが逆に魅力となって読み継がれているのでしょう。

そうした性格の書物のためか、長いこと古事記は偽書扱いでした。日本書紀に比べると確かに短いし、脚色が多いとされています。ところが、江戸時代になると賀茂真淵がこれを、「日本の精神に合っている」と評価したことから、急に人気沸騰して日本神話のナンバーワンになってしまいます。

何といっても、話がまとっまている古事記は読みやすいです。というか、日本書紀があまりにまとまっていなくて読みにくいです。特に神代の1~2巻は「ある書に曰く」が多くて、慣れてないと話がこんがらがってきます。

編纂者 太安万侶

古事記が偽書と疑われる原因のもう一つに、編纂者の太安万侶は、長らく実在しない架空の人物とみなされていました。しかし、墓誌が発見されたことにより実在した人物であることが証明され、同時に古事記も見直されました。

墓誌の発見は思いのほかに近く、昭和54年(1979)1月。奈良市此瀬町の農家の方が、畑の茶の木を植え替えるために一本一本、鍬で掘り返していると炭が出てきた。その炭を掘り返していると、直径40センチほどの穴がぽっかりと空き、小さな骨と銅板が出てきた。

板には「…太朝臣…」の文字が。

のちに専門家によって調べられ銅板には「左京四條四坊従四位下勲五等太朝臣安萬侶以癸亥年七月六日卒之書養老七年十二月乙巳」という文字が書かれていたことが調査報告されました。

これが太安万侶の墓の発見です。あと、骨も見つかっているわけです。

遺骨の一部は、太安万侶の子孫が宮司を務める「多神社」に引き取られ、記念碑が造られています。

養老7年は723年(癸亥)。古事記の編纂が712年ですから、編纂後しばらくしてから亡くなったということになります。

左京四條四坊は住所。位は従四位下。いわゆる中級貴族と呼ばれる位です。

低い身分ではないにしても、有力者では確実にない。そういう貴族が抜擢されているということは、古事記の編纂の「価値」は、そのくらいの認識だったってことなのか、目立たないようにとられた処置だったのか。いずれにしても謎多き抜擢です。

本当に、古事記は「偽書」なのか

古事記が偽書というお話は江戸時代からありました。何より古事記の記述の多くを割いている出雲が当時、古代に発展していたという「考古学的」証拠がなかったというのも理由です。

さらに戦前の日本は、いわゆる「国家神道」の時代です。古事記・日本書紀の記述が、あたかも本当にあった「史実」であるとして、天皇を奉じた国家を運営していました。

朝鮮半島を併合するときに「神功皇后の朝鮮征伐」を理由として、「かつて朝鮮半島は日本だったのだから併合していいのだ」と、大義名分にしたのです。だから戦後はその反動で、古事記は偽書、もしくは古事記はデタラメという解釈が一般的でした。

しかし、こうして太安万侶の墓が発見されたことによって、太安万侶は架空の人物ではなく実際の人物であるということがハッキリしました。しかし、編纂自体が史実だとしても、記述内容が「史実」だとは限りません。

この時点ではまだ古事記の記述は「架空・創造」という疑いがありました。

でも、荒神谷遺跡の発見。また、平成12年の出雲大社古代神殿の柱の遺跡の発見によって「古事記は決して創作話とは言えない」という現在の見解に至るようになります。

古代出雲の論拠については「出雲大社が高層神殿でなければならいのか」を参照してください。

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